メルマガ動画撮影のために松聲館に行ってきました。
といっても大半は稽古の時間で、撮影は終盤にまとめて行うことになっている。
事前に先生からいただいたメールには、名古屋・関西で大きな変化があったとあり、今回も稽古を楽しみにしていた。
楽しみは、最新技を受けることだけではなく、技を受ける自分がどう変化したのかを確認できるところにもある。
私は先生を驚かせるつもりで毎回臨んでいるが、現実は私が驚かされているばかりである。
特にこの日は、自分なりに多少は解釈できてきた先生の技が、またわからなくなるほどの衝撃を受けてしまった。
これは、先生の変化がこれまでの延長線上で速さや威力が増したのではなく、新たな質の動きが発現したためだった。
『高速微震動』と名付けられたこの動きは、名古屋の山口先生との稽古で気づいたという。
『払えない突き』『柔道の組手争い』『浪之下』などの技の土台となる、全ての動きに質的変化をもたらす変化だ。
特に驚かされたのは、のちに『水面走り』と名付けられた、「先生がびっくりするくらいのはやさで距離を詰めてくる。」動きだ。
いわゆる『縮地』と呼ばれる動きだが、これまで講習会で紹介されていた、相手に向かって滑空するように近づく『縮地』とは受けた印象が違う。
足を小刻みに踏みかえつつ進み、方向転換も可能だ。
これを『払えない突き』の形で受けたが、こちらが対応しようと思ったときにはすでに間を詰められてしまっていて、文字通り手も足も出ない。
間を詰められるあいだに見えた光景は、先生が拡大されてくるかのようだった。
しかしなぜ私は手も足もでないのだろうか?
「『払えない突き』をやる。」と、事前に説明されているのだから、頭では何をされるのかはわかっている。
目はあけているので先生の動きは常に視界に入っている。
それでも対応できないのだ。
頭でわかっていても対応しにくいと言えば、節電などで止まっているエスカレーターを上るとき、普通に階段を上るよりもやりにくく感じたことはないだろうか?
普段はエスカレーターの動きを体が予測して自動的に調整してくれているので、動き続けるステップに足を掬われることなく乗れる。しかし、エスカレーターが止まっているときにもこの調整機能が意思とは無関係に働くせいで、何とも上りにくくなる。
今回の対応のしにくさに通じるものを感じる。
しかし今回の『水面走り』を受けた感触は、エレベーターよりも弓矢にたとえたほうがしっくりくる。
弓の前に立って、飛んでくる矢を掴むのは不可能に近い。これは単に矢が速いためだけではなく、矢を放つ動作がいつ行われるのかわかりにくいためだ。
『水面走り』は予測できないタイミングと、予測を裏切る速度で動かれるために、こちらが対応出来ないのだと考えられる。
対応できない理由が理解できても、実際、こちらが十分に準備をしているところに全く間に合わないはやさで近づかれるというのは、全く驚きの体験だ。
この動きは是非とも身につけたいが、その方法が見つかるかどうか。
先生からヒントはたくさんいただいたので、これを頼りに進んでいきたい。
思い出した順序に並べると次の通り。
・常に動き続けている
・胸のしたあたりからが足
・高速で綴れ足(内観でやる)
・エンジンを吹かしている状態
・小鳥が飛び立つよう(やった後の感想)
・左右の足幅が開いたまま進んでいる(やった後の感想)
・歩幅は小さめ
・水面を走るかのように右足が沈む前に左足を前に出す
最後に挙げたヒントからは、この動きの困難さが伺える。
『綴れ足』は以前から知っている動きなので理解できる。『綴れ足』による高速の足踏みの感覚があるから、『滑空による縮地』ではなく『水面走り』なのだと考えられる。
技を目の当たりにした上にこれだけのヒントをもらっても、私がこの技をできる気がしないのは、先生の説明が難しいのではなく、私の体がそれを理解できるレベルにないということだ。
体のほうで変化の準備ができていれば、以前私が思い付いて先生にも驚いていただいた『足の飃拳』のように、イメージしただけで驚くような大きな変化がいきなり訪れるのだ。
もう少し整理しておこう。これまでの延長線上にはない質の動きと書いたが、土台になっている先生の体が入れ替わったわけではない。
飃拳で纏まった体だから実現可能な動きであるのは明らかだ。
これまで間合いを詰める動きは直線上を滑空するようにされていたが、歩幅を短くすることで方向転換も出来るようになっている。
ここで注意すべきなのは、歩幅を短くしようとしたのではなく、高速で綴れ足をする『高速微震動』の内観に従った結果、歩幅が短くなったところだ。
予測できないタイミングで動かれるのは、その前に気づいた『飃拳』をセンサーにした『手づかみ』からの逃れと繋がっていると考えられる。
もちろん絶対的な動きのはやさは、蹴らない動きを要求される『太刀奪り』が無関係ではない。
このように整理してみると、私が『水面走り』をすぐに理解できないのは、その前の『飃拳』によるセンサー感覚や、『太刀奪り』の動きを体得していないためだと推測できる。
一足とびに習得できる技ではないが、先生の技を直に体験したことで、今までになかった感覚が体に刻まれた。
この貴重な経験をいかして、今後も稽古を続けていきたい。
といっても大半は稽古の時間で、撮影は終盤にまとめて行うことになっている。
私は先生を驚かせるつもりで毎回臨んでいるが、現実は私が驚かされているばかりである。
特にこの日は、自分なりに多少は解釈できてきた先生の技が、またわからなくなるほどの衝撃を受けてしまった。
これは、先生の変化がこれまでの延長線上で速さや威力が増したのではなく、新たな質の動きが発現したためだった。
『払えない突き』『柔道の組手争い』『浪之下』などの技の土台となる、全ての動きに質的変化をもたらす変化だ。
特に驚かされたのは、のちに『水面走り』と名付けられた、「先生がびっくりするくらいのはやさで距離を詰めてくる。」動きだ。
いわゆる『縮地』と呼ばれる動きだが、これまで講習会で紹介されていた、相手に向かって滑空するように近づく『縮地』とは受けた印象が違う。
足を小刻みに踏みかえつつ進み、方向転換も可能だ。
これを『払えない突き』の形で受けたが、こちらが対応しようと思ったときにはすでに間を詰められてしまっていて、文字通り手も足も出ない。
間を詰められるあいだに見えた光景は、先生が拡大されてくるかのようだった。
「『払えない突き』をやる。」と、事前に説明されているのだから、頭では何をされるのかはわかっている。
目はあけているので先生の動きは常に視界に入っている。
それでも対応できないのだ。
普段はエスカレーターの動きを体が予測して自動的に調整してくれているので、動き続けるステップに足を掬われることなく乗れる。しかし、エスカレーターが止まっているときにもこの調整機能が意思とは無関係に働くせいで、何とも上りにくくなる。
今回の対応のしにくさに通じるものを感じる。
しかし今回の『水面走り』を受けた感触は、エレベーターよりも弓矢にたとえたほうがしっくりくる。
弓の前に立って、飛んでくる矢を掴むのは不可能に近い。これは単に矢が速いためだけではなく、矢を放つ動作がいつ行われるのかわかりにくいためだ。
『水面走り』は予測できないタイミングと、予測を裏切る速度で動かれるために、こちらが対応出来ないのだと考えられる。
先生からヒントはたくさんいただいたので、これを頼りに進んでいきたい。
思い出した順序に並べると次の通り。
・常に動き続けている
・胸のしたあたりからが足
・高速で綴れ足(内観でやる)
・エンジンを吹かしている状態
・小鳥が飛び立つよう(やった後の感想)
・左右の足幅が開いたまま進んでいる(やった後の感想)
・歩幅は小さめ
・水面を走るかのように右足が沈む前に左足を前に出す
『綴れ足』は以前から知っている動きなので理解できる。『綴れ足』による高速の足踏みの感覚があるから、『滑空による縮地』ではなく『水面走り』なのだと考えられる。
体のほうで変化の準備ができていれば、以前私が思い付いて先生にも驚いていただいた『足の飃拳』のように、イメージしただけで驚くような大きな変化がいきなり訪れるのだ。
飃拳で纏まった体だから実現可能な動きであるのは明らかだ。
これまで間合いを詰める動きは直線上を滑空するようにされていたが、歩幅を短くすることで方向転換も出来るようになっている。
ここで注意すべきなのは、歩幅を短くしようとしたのではなく、高速で綴れ足をする『高速微震動』の内観に従った結果、歩幅が短くなったところだ。
予測できないタイミングで動かれるのは、その前に気づいた『飃拳』をセンサーにした『手づかみ』からの逃れと繋がっていると考えられる。
もちろん絶対的な動きのはやさは、蹴らない動きを要求される『太刀奪り』が無関係ではない。
一足とびに習得できる技ではないが、先生の技を直に体験したことで、今までになかった感覚が体に刻まれた。
この貴重な経験をいかして、今後も稽古を続けていきたい。
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