この日は韓氏意拳の内田さんから『集注』について久しぶりにまた教わることが出来た。
しゃがんだところから中腰になるまでの『型』で稽古する。
この稽古を通じて『腰をとる(捉える)』感覚を身に付ける。
自分の腰を意識できるようにならなければ、相手の腰を取ることは出来ない。
・無いところに意識を向ける
肘や肩甲骨の間など、指示された場所に対して順番に意識を向けていくと、結果として体が沈んでいく。
しゃがみきった姿勢からでもさらに沈む。
中腰になったらその『集注』を切らずに動く。
よいしょと動くと体が浮き上がって解けてしまう。
・きっかけだけ与えて動く
つまり『集注』が切れないようにするのだが、分かりやすくかけば腰が浮かないように動くことだ。
こう言われてやってみると、はっきりと違いが確認できた。
きっかけを与えるのは意識だが、動作はその時に始まっている。
説明すると矛盾があるように読めてしまうかもしれない。
きっかけを与えたあと、意識で確認できるのは動作が終わったことだ。
(腰をこう動かして)などと思いながら動くのとは全く感覚が違う。
腰は浮かないし、余計な動作は入る余地がなくなる。
これは面白い感覚だ。
的外れかもしれないが、韓氏意拳がなぜ『意』なのかの理由がここにありそうだ。
それから相手を投げるときにどこに向かって腰をとるのかという原則をうかがうことが出来た。
同じような話しを少林寺拳法の動画で説明しているのを聞いた記憶があったが、それと異なるのは左右で崩す方向が違うということだった。
しゃがんだところから中腰になるまでの『型』で稽古する。
この稽古を通じて『腰をとる(捉える)』感覚を身に付ける。
自分の腰を意識できるようにならなければ、相手の腰を取ることは出来ない。
しゃがみきった姿勢からでもさらに沈む。
よいしょと動くと体が浮き上がって解けてしまう。
こう言われてやってみると、はっきりと違いが確認できた。
説明すると矛盾があるように読めてしまうかもしれない。
きっかけを与えたあと、意識で確認できるのは動作が終わったことだ。
(腰をこう動かして)などと思いながら動くのとは全く感覚が違う。
腰は浮かないし、余計な動作は入る余地がなくなる。
的外れかもしれないが、韓氏意拳がなぜ『意』なのかの理由がここにありそうだ。
同じような話しを少林寺拳法の動画で説明しているのを聞いた記憶があったが、それと異なるのは左右で崩す方向が違うということだった。
左側は広がるように外へ崩し、右側は原則に従い内側へ崩す。
なんでそうなのかはわからないが、面白い。
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