久しぶりにWさんと怪我あけのAさんと一緒になった。
シュワイジャオから離れて打撃を始めたというWさんに謙譲の美徳による打撃を受けてもらって、柔道への応用がうまくいかないという悩みを話したところ、目の覚めるようなアドバイスが帰って来た。
『良いと思ってやっているものの大半は余計。』
謙譲の美徳で余計なところはどこか。
Wさんが言うには相手に跳ばされる(自分が跳ぼうとしている)部分だという。
自分で跳ぼうとしているから動けなくなっている、実際に跳ぶ必要は無い、というのがWさんのアドバイスだ。
確かに相手が跳べばいいのだから、自分が実際にやられようと(跳ぼうと)する必要はない。
今のやり方は動きの要素を引き出すのには有効だが、必要最小限のやり方ではなかったということだ。
このアドバイスですぐに変われるほどわたしは器用ではないが、これから変わっていく指針になるアドバイスだった。
何しろ自分で良いと思ったものの欠点に自分で気づくのはなかなか難しいのだ。
Wさんには腕を振り回す練習をしているわたしに対して、右腕が脱力できずに余計なことをしていると指摘をいただいた。
言われて気づいたが、確かに余計なことをしていた。
柔道で釣り手を使うときの癖が出ているようだった。
いかんなー、と思っていたところにまたWさんから目覚めの一言をいただいた。
『余計なことをしてしまうのが必ずしも悪いわけではない。』
わたしの例で言えば柔道で有効な動きの癖で、今の脱力が出来ないのだとしたら、柔道で有効な動きを修正してまで脱力出来るようになる必要はない、ということになるだろう。
わたしは理想的には何でも出来る体になって、その上で最適な動きを選べるようになれたらいいと思っていたが、人間の体はそう簡単にはいかないらしい。
何でも出来るようにならないどころか、あっという間に偏ってしまうようだ。
ここでの偏りというのは、動きの癖と言い換えてもいいが、Wさんが話してくれた例がわかりやすいので紹介すると、Wさんは競技用の自転車に乗って長距離を走った際、自転車から降りて『立つ』のが下手になっていると感じたそうだ。
椅子に座って足を回転させて進む動作に体が適用した結果、立つのに必要な技術が衰えてしまったと言うのだ。
これは感覚にも影響を与えていて、自転車の速度感覚に慣れると歩く速度の"のろまさ"に耐えられなってくるそうだ。
Wさんはこれを実感してすぐに自転車に乗るのをやめている。
自転車を競技で続けるなら気にせずに自転車にどんどん適用すれば良いが、そうではない専門があるのなら自転車に適用してよいのか考えたほうがいいだろう。
極端な例を持ち出すなら、水泳選手がウエイトリフティングに適応した体になったら浮いていられないということだろう。
ウエイトリフティングには筋力が必要で、自分の体には余分な脂肪はないほうが良いが、水泳には浮力が必要で一定の脂肪があったほうがいい。
私にとっては何がよいだろうか。
Aさんとは、セミナーで教わったという合気上げの練習をした。
呼吸と円の動きで相手を制するそうだ。
相手に反射を起こしてコントロールする技術も紹介してくれたが、確かに無意識に反応してしまう動きだった。
以前、動画でみた岡本正剛先生の技の仕組みはこれだったのか?
※11/10Wさんの指摘を受けて少しだけ表現を修正しました。
自分が跳ばされる⇒自分で跳ぶ
※11/10Wさんの指摘を受けて少しだけ表現を修正しました。
自分が跳ばされる⇒自分で跳ぶ
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