柔道『五の形』『古式の形』から三船十段の技を探る

武術では大先輩の岡田さんが主催する稽古会『雀鷹舎』での研究稽古の記録。
岡田さんの専門は空手だが松聲館の稽古や起倒流などの古流の技を研究されてきた経験から私の空気投げ研究にも長年お付き合いいただき数多くのヒントをいただいている。

前回の稽古では久しぶりに柔道形の『五の形』一本目が成立する条件を検証した。
歩み進める取りの圧力で受けが踵重心のまま後ろに足を運ぶ。そこに合わせて取りが歩みを進める際に軸を立てて踏み込むと受けへの圧力がほんの少しだけ増すのでこれを繰り返しながら前に進むと受けが徐々に足を運べなくなって最後は後ろに倒れる。

今回は『古式の形』にある『曳落』を検証した。古式の形はもとは起倒流にある形で、嘉納治五郎師範が柔道にも『古式の形』として残したものである。
岡田さんは『古式の形』ではなく吉田伝起倒流の資料をもとに研究をされているがそれによると『曳落』は受けが前帯を持って押し込むようにしてきたところを取りが少し受け入れつつ引き落として投げているように読み取れるという。
やってみると受けが押し込んでくる感触が五の形の一本目に通じるところがあり興味深い。五の形ではそのまま押し込まれて倒れるが曳落ではこれを返して投げる形になる。

返し技というと内股透かしや燕返しのように相手が仕掛けてきたところを避けて投げるものや大外刈を刈り返すように相手の技を堪えて跳ね返す場面が思い浮かぶが、曳落の形における返すとはこれらとは少し異なる。投げの形にある一本背負投のように相手が当て身を仕掛けてきた勢いを利用して投げる形がこれに近い。

古式の形の曳落では受けが横帯辺り(刀を指している場合は刀の柄があるあたり)を取りに来るのでその腕を上下に挟み込むように取って引き落とすと、肘から肩がきまり上半身が泳いだ状態の受けが転がる。
吉田伝では前帯を掴んで押し込みそのまま五の形一本目のように相手に尻餅をつかせるべく受けが攻めるところをそれを取りが後ろに下がりながら腕を取って膝をつくことでやはり受けの上半身が泳いで転がる。
この受けに押し込まれてから投げに転じる際の境目が五の形一本目の受けで相手の押し込みに負けて下がり始める瞬間に通じる感触がある。
相手に押されていながらも同じ速度になるとも言えるし、抽象的な表現では馴染むような瞬間とも言える。
とにかく返し技に入るのはこの感触が出てからその動きの続きを引き受けるようにして動くと形通りの動きになるようだ。
早すぎると受けをガクンと引っ張るようにつっかえるし遅すぎては後ろに倒されてしまう。微妙なタイミングだが感触的にはここだとはっきりわかるタイミングだ。タイミングを外せば感触でわかるので受け、取りともにこの感触を掴んでいたら形通り出来たかどうかはわかるようになる。

吉田伝の曳落をやった感触から思い浮かんだのが三船十段の以下の言葉だった。

引用はじめ
蓮の葉の上で二つの水玉が大きな一つの水玉になり、また一寸動かすと二つになる。ここに柔道の面白いところがある。と考えて、いろいろ動きというものを研究した。
引用終わり

受けが攻めて取りを崩しにかかる状態が水玉二つ、受けの攻めと取りが崩れる動きが一体化した瞬間が大きな一つの水玉、その後で取りが返し技に入り受けを投げる状態が水玉二つというわけである。

この文章からさらに思い浮かぶのがまた五の形の今度は三本目で、この形は旋回する二つの物体がやがて一つになりまた二つに分かれる動きになっており、蓮の葉の上にある二つの水玉の説明に非常に似た形になっている。

ここでまた三船十段の言葉だがよく聞く『柔よく剛を制す』に関して三船十段は次のように補足している。

引用はじめ
相手の力を利用すると、相手の力と自分の力が相合わさるために、これは大剛となる。故に剛を制することが出来るということになる。「柔=大剛なり、故によく剛を制す」ともいえるのである。
引用終わり

この大剛をさらに確認すべく、五の形一本目を少し変えて押し込む方を受けに押し込まれる方を取りにして、押し込まれて崩れる動きで大剛を作って返すと押し込む側が前のめりに崩れる現象が確認出来た。また少し自由を持たせた簡単な投げで確認してみても途中から攻守が入れ替わるやっていても面白い感触の投げになった。

岡田さんから提案を受けて古式の形『軆(たい)』をやると受けが腰投げに入らんとして取りを崩す動きに対して取りがそれを返すタイミングを取りが明確に感じとることが出来るようになっていた。
岡田さんは狙い通りだったようだがこの展開には驚かされた。

今回の稽古で岡田さんと確認したことは三船十段の言う大剛の作り方を確認したとも言えるのではないだろうか。

大剛を作るには相手の力を利用する。三船十段はこれについてもその先を考えられている。
以下に三船十段の考えを引用する。

引用はじめ
また考えてみた。人の力を利用するとは果していいか悪いか。若し、利用することが出来なければ敗けになる。それでは駄目だ。また、人の力を利用するということは、考え方によってはおのれに依頼心を起す。何とかして相手に助けてもらおうということになる。いいことではない。と、いろいろ考えた結果、何時何刻でも自分の力を最も有効に利用して、自分の力をもって勝を制することでなければならないと思った。
 即ち、攻撃を無効ならしめればいい。無効ならしめれば、相手は目的を果たさないから、そこに心身共に虚が出てくる。虚は弱い、いいかえれば、最小限度の力をもって、最大の効果を得るということになる。これが一番いい。人の力を利用するといわずに、相手の目的-攻撃といってもいい-を無効ならしめて勝を制する。つまり最小限度の力をもって最高限度の効果を発揮する。
引用終わり

この日形を通じて感じた”大きな水玉になった状態=虚”と解釈すると三船十段が残した技への説明が形を通じて実感出来るようになる。

今年の雀鷹舎稽古はこの日が稽古納め。

三船十段による『五の形』

嘉納治五郎師範による『古式の形』


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