ごちゃごちゃにならないのか。

私のブログを見ている方の中には、これだけ色々なところで稽古して、混乱しないのかと心配される方もいるかも知れない。
あるいは、一つの流派に集中して稽古したほうが上達するのではないかと思われるかもしれない。
私もたまにそう思う(笑)

半身動作研究会の中島先生から「たいさんはどこへ行っても稽古できる。」言われたことがある。
技が出来るかどうかではない。
稽古の仕方を学べたと言うことだ。

技を修めた先生たちから共通して聞く言葉がある。
「私がやると何をやっても○○になる。」
「だいたい同じようになってくる。」
前者の○○には流派名が入る。流派の動きが身に付いているので、その体で何をやっても○○流になるという意味だ。
後者は異なる流派でやっていても、同じ体でやることだから方向性が大きく違わなければ、全く異なる技にはならないという意味だろう。
私も先生方のように技を修めていない段階ながらも、同じように感じることがある。

稽古ではまっさらになる事を心がけている。初めて参加する流派の稽古では特にそうだ。
以前、城間流のセミナーに初めて参加した時にも書いたが、いつもの稽古でやっていることをやるのでは、そのセミナーに参加する意味がないと思うからだ。
だから、いつも難なくやっている稽古と見た目に同じ形の稽古でも全く動けなくなる事も当然ある。
むしろそうであったほうが良い。
やる前に決めつけず、言われた通りに受け取って動く。
その後で感じたことは単なる感想だから特に否定するものではない
ようやく動けて「今のは良いですね。」と言われた後で(これはあの稽古でやる感覚に近いな)と感じることがあるが、これは構わないということだ。

健心流の体験稽古でも、想像していた感触とは違っていた。
というより、予め想像できる感覚ではなかった。
同じ流派で稽古をしていても術者が違えば感覚が変わるのだから、流派が異なれば感覚が違うのは当たり前と言えば当たり前だ。

で、ごちゃごちゃにならないか?という疑問についてですが、何かしようとしなければごちゃごちゃにはなりません。
あれとあれは同じだとか違うとか、整理しようと考え始めるときっとごちゃごちゃになると思います(私の場合)が、ただ純粋に味わっている分には問題ありません。
後は体におまかせです。
気に入った動きを体が覚えてくれて、そのうち勝手に出てくるでしょう。

以前、忍者のIさんと盗撮容疑の男を取り押さえた時、普段稽古していない合気道の『一教』の形になったのが一つの例だと思います。また、その時に力任せの動きが出なかったのも、普段の稽古で身に付いた動きを体が選択してくれたのだと思います

つまり、気に入った動きなら楽しんで稽古していれば良いということです。
ただ、ごちゃごちゃにはならないと思いますが、流派を決めて稽古した場合に比べて上達が早いかどうかはわかりません。
魅力的な稽古が色々あるので仕方ないです。

コメント