手裏剣稽古(後編)『形』『集注』

この日は途中から韓氏意拳の内田秀樹さんが来てくださった。
Uさんからはテクニックではない、武術の根本のところを教えていただいた。
それは、『形』と『集注』について。



根岸流手裏剣術にある『卍の形』だったが、単なる手順とポーズではなく、形が要求するものについて着目して取り組む。

それにしても内田さんとの稽古で教わったことを文字にするのは難しい。
どの流派のことについて書くときも、教わった通りのことをブログで表現しきれてはいないのだけれど、どのみち理解できた範囲でしか文字に出来ないので開きなおって書いている。
それにもかかわらず
内田さんとの場合は特に難しいと感じる。


『形』が要求するものは何か。
なぜ始めの構えから次の形に移るのか。
その間に何が起きているのか。


内田さんからの指示は、

無いところに意識を向ける

というもの。

これにしたがって意識を向けると体が変わっていく。
この変わっていくときの状態というか変わっていくことを『集注』というようだ。
ちなみにこの『注』の字はこの稽古で書く場合、これで正しい。



始めの構えでは肩から肘。
 目の後ろに視線をおく。
 首
 肩
 肩胛骨の間
 右肩から右肘
 左も同様
 腰
 仙骨
 尾てい骨
 小指側と手首、左右
 鼠径部
 下腹
 膝の裏 無いところ
 足首 無いところ


無いところに意識を向けていくと体が下に沈んでいく。
順番や規則性はないので、無いところに目を向けることを続けていくこと。
体が沈んでいくことが目的ではない。
姿勢を意識的に作ろうとしないこと。無いところに目を向けること。


卍の形では、左右に腕を伸ばした格好からはじめて、無いところに意識を向けると体が結果として沈んでいく。
沈みきる前に左肘と腰に意識を向けると左半身になって手裏剣を構える体勢に移行するのでそこでさらに無いところに意識を向ける。
『集注』が高まる(表現があっているか分かりません)と打つしかなくなるので、左手を下げると右手が自動的に前に出て手裏剣が発剣される。


この『集注』によって、体が次の形に移行することや、打つしかなくなる感覚が『形』が要求するものだと感じることができた。

『形』の要求を満たさなければ手裏剣を打つ気になれない。
『形』が体に打たせてくれないのだ。


このような稽古ははじめてで、衝撃的な感覚だった。
衝撃的だったのは『集注』によって導かれる体勢のきつさもそうだった。
内田さんにはしゃがむ『形』や座ったままの『形』などいくつか指導していただいたが、ある形では膝の裏までいったところで体勢を維持することができなくなって浮き上がってしまった
具体的にきつい場所は足の筋肉だが、苦しさとしては息を止めて水のなかにいるような苦しさだ。
筋トレのスクワットが体力の限界で出来ないというきつさとは種類が違う。



カリも面白かった。
自分の範囲からでないということ、アングルを切るということ。
カリのイメージは、日本武術が持っている伝統文化的なイメージではなく、実戦的で生々しい殺伐とした怖いイメージだったが、『集注』の側面からのアプローチに触れたお陰でそのイメージが少し和らいだ。
興味深かったのは、こちらが『集注』してスティックを構えていると相手が適当に攻撃してこようとしても体がそれを制する動きをとってくれることだった。
カリのテクニックは全く知らない私でも相手の動きがわかるようになり、それに対して動くことができたのは驚いた。
これが示しているのは、状況に対処できる体になっていれば、動けるということだ。テクニック以前の根本的なところだと感じた。


他に、投げ技でも相手にとらわれないで組むことや、投げる動きを着物からもらえる感覚に従うことで細く、速くすることなど、やはり文字にしきれないことを教わった。


私からは情報交換の材料に手裏剣稽古で気づいたことをいくつかお伝えしたが、なかには内田さんにとっても有用ものがあったようだった。
来ていただいたお土産になっていれば嬉しい限りだ。



今回はひときわ濃い稽古になった。
今年の手裏剣稽古はおしまい。
Oさんをはじめ、みなさま本年は大変お世話になりました。
来年もまたお願いいたします。

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